想像力の暴力的なまでの力

 文治の文章を受けて、まず一つ謝らなければならないことがあります。
 現代のもの、と僕は書きましたが、この「もの」という単語は、前文の「文学」を受けたものであります。訂正するならば、
「文学的な再発見、または現代の文学を残していける力」
 と、なるでしょう。また古典に関して幾らか言葉を並べましたが、古典もまた、現代に存在している限り、現代文学の一部であると考えるべきではないでしょうか。再発見を強調した理由もここにあります。むしろ、古典という呼び名に対する反発とでも言うべきでしょうか。教養をつける、という謳い文句で、古典の解説本、安易な漫画化に対する反発であるのかもしれません。もちろん、漫画を否定するわけではありません。おそらくぼく自身の、物語というものへのいっち番最初の接近は、『ドラえもん』であることは否定できない事実です。『鉄人兵団』は幾度も見ました。また、そういう意味では『ウルトラマン』も字への接近という点では最初のものでしょう。僕は親に言わせると、ウルトラマンのお陰で、平仮名より片仮名のほうを早く覚えたそうです。
 このように見ていくと、たしかになぜ文学でなければならないのか、という反発も当然のことのように感じます。しかし、僕は映像を否定するわけではありませんが、文学の持つ想像力への働きかけほど、僕自身を刺激するものはないと思っています。以前、条には話したと思いますが、ライトノベルを僕が受け入れきれない理由もそこにあります。登場人物のビジュアルを文章でなく、画像で出すというのは、ノベルである必要性をまったく感じないからです。想像力の限界を、小説の方で定めてしまっては、自ら首を絞めているようなものではないでしょうか。その点、小説を基にした映像、というものは評価します。彼らは映像の力を、僕が考える文章の力と、同じように受け止めているはずです。しかし、ライトノベル、しかも絵ではなく文章を書くほうには、その意識が薄いと思われます。絵のほうは小説の解釈、として捉えることができますが、その解釈をイコール原作とするようなとられ方を容認する態度を残すことは、自殺行為のように見えます。
 そこに、商業主義との迎合を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし恐らく、そのようなものは現在でしか問題にならないものではないかと思います。全くとはいえませんが、文学というものへの僕が求める力とは、交わるかどうかの確信がもてません。
 売れる売れない、というのは、作家ではなく編集の責でもあると思われます。作家は書きたい物を書き、編集の側がそれをマーケティングに基づいて選ぶ。こう書いたほうがいい、という指摘は的を射ることがあるでしょうが、こう書かなければならない、というような指摘は、個人の理想であり、文学の理想ではない。文学が、学問ならば、書かれたものを書かれたものとして捉えることが肝要ではないでしょうか。もちろん、売れるように努力することは、良い小説を書こうとすることに矛盾しません。むしろ売れるようなものを書こうとしてかけるならば、これほど作家が増えるはずもありません。
 ここで商業主義へ批判的な態度を取る方は、学問的もしくは文学的価値と、商業上での価値は違う、と仰られるでしょう。しかし商業、マーケティング、むしろ経済と呼び習わした方でいいでしょうか、それらは立派な学問でもあります。マーケティングには心理学的なものも多分に含まれております。そして分節化した学問も、もとを辿れば、商業ならば商業で、政治ならば政治で、化学ならば化学で、一種の『理想』、少なくとも前へ進もうという、同じ目標を掲げている同士であることを忘れてはいけません。大衆文学、エンターテインメントなどのなにがいけないでしょうか。ただ僕が言いたいのは、小説の挿絵がもたらす、想像力への介入がいけない、といっているのであって、ライトノベルを拒否する考えを持ちません。それに、想像力が未成熟であったころに読んだ、絵本には当然絵があります。絵と文章を繋げる、というのは想像力を鍛える初歩の初歩でしょう。そこから、絵を見て文章を想像する、文章を見て絵を想像する、その力を身につけていくのです。そして、絵にならぬものを絵に、文章にならぬものを文章に、そうしていく力が生まれるのでしょう。
 このように書くと、過分に理想主義者のように響くかもしれませんが、否定しません。
 また、文治がいう現代を表すのに、文学である必要があるのか、という問いにも、上記した文章がその説明にもなると思います。まず現代に生きる人が、古代を描いてもそれは現代のものでもある、ということを忘れてはならないと思いますが、それはまた別の問題でしょう。文学で現代を表そうという試みは、作家が多様にいるように、現代を表す術が一人ひとり違い、また想像力の発達とその使用法がそれぞれ違う、ということが前提としてあるではないかと思います。その上、他の法学や政治、経済などと照らしながら、僕の中で文学に軍配が上がった、という点に触れることも必要でしょう。今までの生き方から、文学を選ばざるを得ない。もしくは、これまでの行動の結果が、これであった、とするべきではないでしょうか。そもそも文学も学問が先にあったわけではない。文学とはを論じるよりは、だれそれの行動の結果が文学である、という態度で望むべきだと思います。文学とは、を先にやると、やはり自分の理想への適合不適合に陥るでしょう。それは、自分の理想へかける一種の博打です。もちろん、小説化とか作家としては、それでいい。全然いい。しかし、大学で文学を学ぶ上では、その態度をカッコに括る必要は、かならずあると思います。
 最後に快楽についての言及についてですが、それを一人ひとり違うのだから、というこれまでの論旨で片付けるわけにも行かないでしょう。この問題は、それを前提として考えていると捉えるべきです。その偏りや傾向を捉えるのが心理学であるならば、文学としては偏りと傾向を容認し、理解しようという努力が必要であると考えます。条の文章は恐らくその傾向を示す文章であって、それを文治のように原則を示せとするのは、辛く当たりすぎではないでしょうか。舞城の価値観から来ていることに触れながらも、内実を示せと言い放つのは、少々辛らつのような気がします。
 文学の固有性を問題にするならば、想像力の行使の仕方というものは、一つの議題足りえると思います。想像することでしか置き換えのきかない、想像上のものでありながらも、実存しているものはあると思います。例えば人格とか個性とか? 文学というものは、もちろん空間への想像、描写への意識の投げかけ、陶酔や快楽、というものが基礎でしょう。
 もちろん、紙的なものとインク的なものを忘れてはならないでしょうが、そこらへんはちょっと分野違いでしょうから、なんともいえません。しかし重大な問題でもあると理解しています。
 ここで問題なのは、想像力という言葉の持つ、無限にも近い汎用性です。想像なくして、人間の生活が行えますか? 明日を想像できず、昨日を想像できず、「ことば」という文字から意味を抽出できない。想像力は、基礎の基礎過ぎるのです。それを理解するには、体系だって説明するには、僕の力は足りないでしょう。
 ただ、文学は想像させることによって、力を得ます。文学によって想像されたものと、実際に映像化できるものとの差異が、文学にいわゆる撤退戦を強いない理由ではあるかと思います。
 だって、評論とかなら、この場面はこうだってメタテクストで語れるけど、それを小説でふつーにやって、人生とは〜なんたらっていったら、いや評論読めってなるでしょう。そうやって趣旨語れるんなら、いいじゃん、そのことばだけで。それに説得力を持たせたいんなら、フィクションじゃなくてノンフィクション使えよ。フィクションのほうが強調しやすいってんなら、それこそ評論ですよ? すみません。
 想像上のもので、想像以外で語れないものをやるのが小説だと思います。その語りつくせないものを、語ろうとするのが文学でしょう。僕は今のところそう考えています。
 あと、普遍的な固有性について触れていましたが普遍ということばは理想であって、想像のものだと解釈しています。想像はしかし普遍的でしょうか?

文治、触れられない言葉の手触り http://d.hatena.ne.jp/society777/20091225

整理整頓

 陸条(http://d.hatena.ne.jp/joe_kuga/20091216)文治(http://d.hatena.ne.jp/society777/20091218)と来て僕の番である。詳細は彼らの書いた同タイトルの文章を参照されたい。「なぜ文学を選んだのか?」裏を話すと、この問いにしようとしたのは僕だ。まずこのことを謝罪しておこう。文学とはなにか、という問題自体が条が書いたように「抽象的で厄介な問題」である。でなきゃ困る人がたくさんいるのである。逆に解釈に困らないものを文学と呼んでいいのか、とも思うところであるが脱線しているので止めておく。
 とにかく、文学とはなにかとか、解釈がどうとか、どんな作家が素晴らしいとか、なぜ読むか、なぜ書くか、などを生きていく上で考える機会が多いから、文学を選んだ、などといえるのではなかろうか。文学という学問が先にあって、文学テクストが生まれたわけではないのだから、自分の行動に一番近いものを探してみたら、「文学」だった。それだけのことだろう。まとまってしまった。としたら、論点のすり替えに二人が激怒することだろうから、やめておこう。
 好きなものが文学だった、ということは問題にされていない。なぜ好きになったかが問題なのだ。「好き」を「興味がある」とかそんな類義語に置き換えてもいい。好き、といったときに起こる好悪の判断(好きな文学を言葉にした時、その言葉になされなかった部分は嫌いなのか? そんな文学観は偏狭に過ぎないか?)やらなんやらまで触れるのもまた、脱線だろうからやめておく。
 ならば、どのようなものが好きか、ではなく、好きなものはなにか、という点から類推してもらった方が答えに近いものが生まれるだろう。好きとか、そういう感情は言葉では説明できないなにかで、物語や情景の組み合わせ、音楽とかそういったもので表現ができるものだと願うからだ。他の言葉では説明しつくせないものが感情というものだろう。感情を表現できる術、いや言説化しにくいものを表現できる術の方が近いだろう、そういう意味で本などといったものが好きだ。でもこれは文学だけではない。ほぼ全ての表現を含む。感情を説明しようという努力もまた表現である、と思う。ならばそのたくさんある表現の中で、なぜテクストを選んだかは少なくともいっておかねばならぬだろう。別にテクストだけを楽しみ、それ以外を排除しているわけではない。絵画も見るし、音楽も聴くし、映画も見る、文章のみを選んだわけではない。ただ紙とインクだけ。絵のように一枚にまとめる必要もないし、音楽のように消えない(それが良いという点も認める)、映画のようにカメラも必要ない。それがとても好きなのだ。もっとも自由なもののようにうつる、というのがその説明に一番近いだろうか。さてここらで、なぜ文学を選んだかが、僕の好きなものの説明になっている、という反論が聞こえてきそうなので、やめておこう。
 文学と呼ばれても不思議と思われないものを読み始めたのはいつだろうか。読書記録をとるようになったのは高校からだ。本にメモを書き込むようになったのは浪人中。しかし、一番最初は幼稚園の絵本だったろう。児童文学というものだ。だが今となっては、あれらのものは難しすぎる。そもそも「悪」というものをどう表現するのか、いや、幼児に見せてはいけないものはわかるが、それらを悪と断じてもいいのか、などといった懸念が先にたつ。難しすぎる。次が国語の教科書、図書館の児童書(小学生の頃は『ひとりぼっちのロビンフット』だったかをよく読んでいた。僕は好きな本は繰り返し読むタイプなので、たくさん忘れてしまった本はあるが、これは覚えている。僕は粘着質なのだ。好きなゲームは大抵何周もする)青い鳥文庫(パスワードシリーズ、といえばわかる人も多いだろう)、そこからミステリ(森博嗣かなぁ)という感じだ。エンタメ傾向の本も随分読んだが、文学、純文学も十分エンターテインメントであろう。分ける必要性はそれほどないと思う。
 以上が概略だが、この中から純文学と呼ばれるものは抜いた。文学史というものに名が載るという意味での純文学だが、それらを文学として意識して読み始めた、評論というメタ化を想定し始めたのは、つまり「文学を選んだ」のはやはり前の二人と同じように高校に入った辺りからだ。陸条は「個人史的なことをここに叙していっても仕方ない」といっていたが、文学とは殊に個人的なことであって、それが人々へ伝えられ拡散していくという側面を無視してはならない、と思っているが故に叙したわけだ。ただ僕の人生において読書がなくなる(「人生とは」もまた説明しずらいものだろう。また、読書が消えるなど、本というものがなくなったりはするかもしれないが、SFでもない限り不可能だろうが)、ということがないという例を示したかった。また「書くこと」も書いていない。パソコンを手に入れる以前のものは、もう持っていないし、しっかりと思い出せないからだ。それらはすでに思い出になっている。
 メタ化への、消費者としての僕からの脱却への、最初の契機はカフカの『変身』である。これが本題なのだろうけど、文学を選んだ理由足りえない。評論や文学部へ進もうかと思い始めたのは、これだろうが。実際、文治のように現役のころは法学か文学かで迷っていた。生活できるか、というのがあったからだ。それが消えたのは、浪人してからだ。説明は不要に思われるので書かない。
 ただ、この世界で生きていくならば、文学とはなにか、を知る必要があった。僕はこれが文学である、といえるものをしらない。だが世界には「文学」があった。文学と呼ばれているものがあった。そういうコンテクストがあるのだ。それが絶対的に正しいわけではもちろんない。だがそれらを無視していい理由にはならない。それらを下敷きにして今の「文学」が存在するならば、それら古典というものに対する自分の立場も持っていなければならないだろう。その上、価値判断というものも、人生とか意味とか、そういうもの同様で、自分で創り上げなければならないもののだ。各人に元から備わっているとするのはあまりにも乱暴だろう。だが文学を選ぶというのは、価値を説明可能にしようという努力ではないかと僕は思う。時の試練に打ち勝ってきたというものも良く聞くが、それは現代においてのみであって、後代に再発見されるだろうものを想定していない。これから消えてしまうだろうものもだ。これまでの「文学」によって消えなかった、という点で古典を評価されているとすれば、それは間違いであろう。今まではそうだ、これからは違うかもしれない。しかしそのような判断を僕はとれない。それでは駄目なのだ。
 極言、一人の好悪は問題にはならない。文学を好きである、それは結構。望ましいことだ。嫌いな文学を選ぶような人間はいないだろう。しかしそれは一つのきっかけではある。その点は認める。しかし、それが文学的に見て正しいか否か、そしてその文学的な立場が論理的に間違っていないかが、それが問題なのだ。
 再発見、もしくは現代のものを残していける力をつけ、それを実行する。文学を選ぶ、文学をやる、ということを僕はそのように解釈している。
 そのためにはこれまで文学と呼ばれてきたものを、こういう理由で文学であると説明できなければならないし、その逆もできなければならない。価値観の構築とその修練、それに最適なのは古典だろう。現代の小説をそのようにする力を、僕は持っていない。もてるといいな、と思っている。
 さて、最後に「書くこと」についてだが、僕は別に書くことを選んでいない。本当なんだ。ただ、書くことをやめたら、死ぬんじゃないかって思うぐらいだ。たぶん死なないだろう、でも生きていけないだろうと思う。

壁―成体としての「ぼく」―安部公房『壁-S・カルマ氏の犯罪』

「犯罪」とはストーリーの中では、「ぼく」がスペインの荒野を写した写真を吸収してしまったことをさす。しかし名前を盗まれ「ぼく」または「彼」と語られているであろう「S・カルマ氏の犯罪」はすべての犯罪をさす。カルマとは語られている通り、サンスクリット語で罪業という意味だ。Sをどのように解釈するかは語られていないが、サンスクリットの頭文字はSである。そのために付加されたようにもうつる。根拠はない。これは本題ではない。ここで主張しておきたいのは、カルマを罪業というサンスクリット語の意でとらえる場合に起こる、因果の逆転である。これは『壁―S・カルマ氏の犯罪』において、幾度となくなく現れ、そのリズムを作るもののように思われる。つまりそれは、S・カルマ氏=罪業がなしたことが犯罪である、という一般の意味では物語をとらえられず、犯罪とはS・カルマ氏のなしたことである、という倒立のことだ。
 そのために罪業は名を失う必然性が生じた。むしろこの物語にあわせるならば、名をなくしたものが、S・カルマなのだ。「ぼく」が「中学生のころ空想の中でライバルに仕立上げたあの男の人形」との対話において、「他人をあなたから区別することはほとんど不可能」と語られる場面において顕著になる。
 ここで一言を付しておきたいのだが、この「空想」という言葉も短編においてよく繰り返されるものであるように思う。フィクション、現実ではない、という類義的な意味にとると(作品そのものがフィクションであることはおいといてください)、この短編の「空想」は即ち現実と捉えられる傾向が強い。空想を仮定と捉え直すと、それはすべて現実であるようにとれる。この強調に作者の意を汲み取ることも可能ではなかろうか。語り手は名刺にこう語らせている。「願望を現実にして奴等にたたき返し、うんと言わせてやるのがおれたちの復讐なんだ」
 フィクションの中では、空想が現実である。物語において、現実は空想である。このようなカルマ―犯罪の関係と類似したものを散逸させることで、では読み手の世界は? と再考させることも、作者の目的ではなかろうか。この物語において、空想は真に空想的である。黒いドクトルに言わせれば非科学的である。ほぼ唯一といっていい科学的な世界は、転倒の起きていないものは、荒野の風景のみだ。そこに荒野というものの強調をみる(いっさいの説明なく、荒野はこの物語において絶対的だ)とともに、現実に支えられているフィクションではなく、フィクションに支えられている現実を導き出すのは不可能でないように思われる。名前を失わない世界、生きている無機物のない世界、壁になれない世界。フィクションが完全に否定されるところに現実がある。フィクションを肯定しきれない現実がある。それが現実の確実性を高めるのだろう。だが同時に空想を許さない現実とは、存在しにくいことをも示唆する。現実はフィクションに支えられいる。この構造がこの短編を支えている。この短編がこの構造を支えている、とこの物語にあわせていってしまえば、それは言い過ぎとなるだろう。一切のフィクションは、とでも言うべきだろうか。
 だが現実をそのままに描き出すフィクションもある。それは語り手の主観に擁護されている現実の欠片である。風景を切り取る写真と同様の構造を、ノンフィクションと呼ばれているものは有している。またストーリーとプロットがことに写実的であるフィクションものもまた存在している。実際のありそう、といわれるフィクションもこれに当たるだろう。だが、ありそうでない、というのが大抵のフィクションであり、あまりにも実験的過ぎると読者の共感を得られない。(そういうものは存在するが、やがて消えていくだろう。それは人の個性のもっとも深く他に理解されない部分で、その人の個性を知りたいという理由で残されない限りは、その人の消滅とともに消えていくのが道理だ。そしてまた新しい実験が積み重ねられ、その共通項があらたな物語を、もしくは組み合わせを、産んでいく。またこのカッコ内は所見である。)読書行為には作者→読者への接近があり、その逆もある。その双方向によって小説は支えられている。自分のためだけにかかれた小説も、書き手の自分、読み手の自分の関係性において成り立つ。
 これらは切り取るという、主体の美意識によって選別されているもので、彼ら(語り手もしくは読み手)が伝えたいものを切り取っているものであり、一つの概念を先においた転倒によって支えられいる現象である。その意味において右記の主張に被さるが、一般的な捉え方の上では、純化されたもの、意図的なもの、恣意的なものである。風景を枠の中へ入れる行為は、その風景を異化する。特殊なものと思わせる。しかし枠をとりはらえば、それは当然のものでもある。(どちらが優れているか、それは主観による。)枠にはめる、選ぶ、という行為は、このように現実から現実を切り離す、フィクショナルな所作の一様式にすぎないことを、了解してもらいたい。現実はこのようなフィクションに支えられているのだ、と。
 現実とフィクションのこの関係を了承してもらえた上で、カルマ―犯罪へ目を戻してもらい、そこに一つの説得力というものを垣間見してもらえたら、幸いである。
 だがこれだけでは、A→B、B→Aという二元論に終始してしまう。このような壁を作ってしまう。これはライバルのマネキンから受け取ったカード、<旅への誘い>の裏が<死んだ有機物から生きた無機物へ>というものへの考察を産むだろう。裏返す、つまり別の(あるいは逆の)見方をするということだろう。この表裏に関係がないとするのは、あまりにも乱暴であると考える。世界の果への旅、というものが壁という生きた無機物になる、ということなのだろう。では、こうなると「ぼく」もしくは「彼」は、死んだ有機物ということになる、のだろうか。死んだ有機物というものを殊更厭世的に解釈すれば、それもつかめるかもしれない。胸の空虚感だ。目を覚ます、ということはそれに気づくという意味ではないだろうか。名前をなくす前の「ぼく」が本当にS・カルマ氏であるとはいいきれないことは右記で説明した通りだ。カルマ―犯罪関係が、現実―フィクションの構造と同様に保障され、その倒立が確約された世界での物語ならば、カルマ氏とはいわゆる固有名ではない。名をなくし、犯罪を全て背負うものたちの総称であるのだ。名前をなくす、という装置は、物語を進行させる役割を担っているが、それがクリティカルなものであるならば「死んだ有機物」に繋がらない。死んだ有機物とは一つではなく、全体を指しているからだ。それは生きた無機物が一つではない、ということからもわかるだろう。また名前のない誰かとは、基本的に、具体化されない個という意味で、すべての人間をさすものだ、と考えられる。よって、そもそも有機物は死に、「目 を覚ましました」つまりそれに気づいた、「ぼく/彼」が偶然名を失っていた、と取れないか? 昨今言われるように、偶然とは必然だ(これをすべて肯定する気はない)。また、物語においてはそもそも偶然性を語ることは愚にも等しい。そこには必然がある。
『赤い繭』においてそれが補足されているように感じる。こちらの主人公は目を覚ますことはないが、絶望している。「誰のものでもないものが一つぐらいあってもいい」とは、『赤い繭』語り手の言葉だ。繭になることと壁になることは、同じ現象のようにみえる。しかしこの二者には決定的な違いがある。荒野だ。後者も荒野やそれに類するものを吸い取る権利はある、しかしそれをしないのは、物語が違うから、語り手の意図が異なるからである。この主人公を前者の物語に組み込むことはしない。が、関係性はある。
 名をなくす必然性がどこにあるのか。死んだ有機物は空虚感をもともと備えている。名をなくさずとも、荒野は手に入ったのだ。そもそも、S・カルマ氏には名前なんてなかった、とするのがこれの論調である。
 それを説明するために、消極的に『赤い繭』を引用しようと、僕はするのだ。つまりこれは『赤い繭』ではない、『壁―S・カルマ氏の犯罪』である、と。『壁―S・カルマ氏の犯罪』の初出は昭和二十六年「近代文学」二月号である。『赤い繭』は昭和二十五年「人間」十二月号だ。僕は『赤い繭』で得たものを安部公房が『壁―S・カルマ氏の犯罪』へ昇華したものと空想する。事実かどうかは確認が取れていないので明言はできない。ただ二者の間には、消えない関係性があるように感ずる。『壁―S・カルマ氏の犯罪』が『赤い繭』でないことを問題化しようと思うのだ。これはいささか乱暴かもしれない。
『赤い繭』では「おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではない」と切り捨てられるが、それは繭になった男の場合の話である。壁ではない。繭と壁の差は、荒野と名前への執着の差でもある。繭はすべてを投げ捨てた男の「世界の果」だと思われる。だが、荒野を有し名前を失った男は、壁になる。ここで繭と壁の性質の差を考えてみよう。
 繭は糸の塊で、自分というものが解体されていく様のように思える。だが内部は空洞だ。また繭とは幼虫が成虫になる、そのような時に生じるものだ。変身の象徴だろう。しかし、この赤い繭は内部が空洞なのだ。付け足しておくと、赤はおそらく血潮からの連想であると思う。繭の中が空であるのは、胸の空虚感のことだろう。つまり、その繭から生まれたものが、壁ではないだろうか、と僕は思うのだ。つまり、誰でもいいもの=幼虫が死に、赤い繭=「ぼく/彼」、生きた無機物=壁=成虫になる、という構造だ。壁はまた成長までもする。名刺などといったものが生を受けた理由もここから判明する。あれはまた同時に「ぼく/彼」から分離した、主人公の性質であり、その変身である。そして純粋な「ぼく/彼」だけが残った。そして純粋であるが故に、作者安部公房がもっとも惹かれた荒野、砂漠というものを、与えられたのだろう。問題となってくるのは、こうなるとY子とあのライバルのマネキンであるが、後者は主人公の理想の分身であるライバル、Y子は主人公のアニマであり、そのマネキンはアニマという主人公の分身であるから生を受けたのだろう。
 こうなると父性の象徴であるパパをユルバン教授という社会的権威とともに失い、美的センスである画家、正を背負った少女、負を背負った浮浪児、二人の法学者、二人の哲学者、(二というのは二元論的なものであろう)数学者=論理(論理を先に失っていたが故に3+5=?となるわけだ)黒いドクトル科学への崇拝などなどを失っていくわけだ。これは、人間の持つ多義性を失っていく物語であり、つまりはその確認でもある。こうして、主人公は自分の分身をすべて失い、純粋なものになった。壁である。成長し続ける壁だ。(AとBの関係の二元論を基本的な構造として持ちながらも、そこにさまざまな雑多を持つ人を、そのすべてを失っていくことで表現し、そして純粋な存在へと昇華/堕落していくさまを描き出している。ぼくはそのように感じた。その上で、ユーモアの構造をも安部公房は残している。そちらを主題にしてもいいほどである。失えるという論理構造というものは、かようも惰弱であり、倒立もするとアイロニカルに表現しきっている。批判の目を当てるならば、当然実験的に過ぎるということではなかろうか。カフカ同様にかような個性を残されると、後人は孤独を紛らわすと共に、すべきことをも忘れてしまう。また、この物語には、厳密な意味での他者がいないように思える。彼の分身で構築されている。その意味で、圧倒的な他者は、自分である壁だけである。)

先日のTwitterでのまとめ『ライ麦畑でつかまえて』に呪われた男編

 先日寝る前になにかつぶやこうと思ったのがことの始まりだ。なぜつぶやこうと思ったのか、それは友人が雑誌を作るとのことで幾分活動的になっていたことに主な原因があるともう。その日は僕もこのはてダを立ち上げ、twitterのフォローしている人をkugaに増やしてもらった。より活動的になりながらも、書きかけの小説を上げるなんてことはできないんで、つぶやいとくか、と思い立ったわけだ。ちょうど先日某氏に『ドルジェル伯の舞踏会』(以下『舞踏会』とする)の前半つまんねぇ、ということをほざきながらも、後半面白いんじゃね?これはなんとかフォローしなければ、と思い、書き始めたわけだ。

2009-12-09 02:28:32 一度目のつぶやき
  『ドルジェル伯の舞踏会』を半分ほど読んで『肉体の悪魔』のが面白いなって思う。何故
  だか考える。『舞姫』『ライ麦畑でつかまえて』との関連で後者を好いているのかも。前
  者は導入に手間取っているように見える。どこまでも書くことに戸惑っているように思う。
  他と連関しない部分があるように感じる。
 僕自身、このつぶやきが以後五十分続くものだとは思ってもいなかった。続いてしまったのは、前述したように反転するクリティークのせいである。文治のせいである。責任転嫁はよくない。しかし文治は俺の嫁ではないので気にしない。奴のせいである。
 このつぶやきの主旨はむしろ『肉体の悪魔』への賛美となっている。相対的に『舞踏会』の前半部をこきおろすことが目的だろう。簡単にいってしまえば、書き足りないのではないか、ということだ。同時に『悪霊』なんか読んでいるから、よっぽど、そんなちんけなことを考え付いたのだろう。最後のつぶやきでも反省している。今だってしている。

2009-12-09 02:34:59 二度目
  後半視点が定まりはじめると読みやすいと感じるようになった。これは僕の読み方がいけ
  ないのだと思い始めた。小説をどのように読むか。それは、もちろん書いたりする時、そ
  して批評なんかやる時も重要だろうね。どのように読むかということは、そのまま誰が読
  むか、主観の問題に繋がる。百人百様。
 十二分後、である。ちなみにうちの旧式自作パソコンだと「あ」と打つのに一秒かかる。変換にも一秒かかる。だから、テキストエディタに書いたものをコピペするという方式をとっている。だいたい、170字程度になり、つぶやけないという悲劇がおこり、最後の三十字程度を次に回す方式をとる。今回それが顕著だったがゆえに、こんなことになった。/(^o^)\ナンテコッタイ
 これは主に弁明である。そしてなぜ前半部分が嫌いだったのかを考え始める。つぶやき自体は自明でとりとめて本旨と関連しない。

2009-12-09 02:42:42 三度目
  僕は感情移入するタイプだと思う。俯瞰ができない。『デヴィット・コパーフィールド』
  式のくだんないことが嫌いなんだろう。それが一つの物語だったりなんだりしてくれれば、
  僕はそれを受け取れるだろうけど。んで、飛躍しちまうと、心の動きを丹念に書くことは
  そのくだんないことの様に思えるんだ。
 八分後。呪いが姿を現す。去年あたりから切実になってきた。『ライ麦』への愛が、愛を超えて憎しみになり、そして宿命になった感じである。ここでは言いたいことを次に回している。

2009-12-09 02:48:05 四度目
  物語っていうよりもっとずっと無機質なものに見えてくる。宝石みたいな。そういうのが
  いいのはわかるけど。語り手が全能みたいに見えて僕は怖い。誰かがその時思ったことが
  行動に移っていく、っていう将棋みたいなのはわかるけど、僕は同時に、その人は絶対に
  それ以外のことも考えていると思うんだよ。
 六分後。これは主に自分が全能になれないことの僻みだ。怖いなどと書いているがね。自分で書いた物語でさえも、自分の想像以上の効果(以上と書いたが、それはすべてプラスの意味を帯びるものではない。前書いた『雲と蝿』はまだ理解されていない。)を持つという話である。その力にかけようというのが僕のスタンスならば、行動へ移る精神のゆらぎを書こうとする彼とは対立せざるを得ないだろう。いけないことではない、とも思っている。だから宝石と書いた。結晶でもいい。でも精神というものは確定されていない。科学技術の発達を望む。しかしそんな世界は住みにくいだろうね。でも今の世界だって昔比べればある面では十分住みにくいし、ある面では十分住みやすいんだよ。中学のころは好きなことを好きなようにしていればよかったけど、好きになれることが少なかった。今じゃ、好きになれることがたくさんあるのに、好きなことなんてほとんどできないし、そうして僕を縛っているのは僕自身という始末だ。しかし愚痴でしかなく本題からそれるので、この程度でやめにする。精神は確定されていないという話だったね。

2009-12-09 02:54:55 五度目
  でもそれは説明できないし、語り手が触れてもいけないことだと思う。そういうのを目指
  すのもまたいいけどさ、分析みたいに。でも僕は物語側に立つ人間なんだよね、きっと。
  感情ってのは説明できない。決め付けは良くない。でもAがBしたのはCだからっていう
  のは、物語の力を無視していると思う。
 六分後。でも確定されて「いない」では証明でもなんでもないんだよ。そのことを昨日の僕はわかっていないし、今の僕だって実践できていない。ここらで完全に本筋からずれている。いわゆる心境小説というものの良い部分を書こうというたくらみを完璧に失念している。宝石の輝きを無視して、そんなインチキでくだんないものをぶっ壊してやろうと思っている。呪いです。ちなみにさっきの愛憎しみ宿命はMr,Bushidoです、ガンダム00です。最近見たのです。デス、デス。
 ここで僕は、物語を絶対化して、その原因理由が語られなくとも、現実世界のように物語は進行するし、現実は語られるということを言おうとしています。次がその試み。この時点で、世界というものに含まれているテクストという問題を失念しています。小説が、自然の力に勝っているかの如くですね。ひどいですね。フィクションという現実とか世界っていうものの中の一つのくくりでしかない、ということを忘れています。でも僕が言いたかったのは、そうやって現実とか世界の中にある限り、外れることのない、法則というか物語というか、そういう力を主張したかったわけです。
 

2009-12-09 03:07:43〜2009-12-09 03:12:16 六〜八度目
  目の前に完全完璧好みにぴったりの人間が現れた。何故そういうのが好みかというと、っ
  てのを全部説明できますか? できるなら、それは感情じゃなくて論理に根ざしているも
  ので、急所を突かれたら崩壊しちゃうでしょ?
  いかにしてその好みが形成されたのか、を過去に立ち返って説明するんでもいいよ。でも
  絶対に説明できない点が出てくると思うんだ。それが研究対象ってのも面白いけどね。僕
  は何故鏡に映った自分を他人と思わないのか。そんぐらいまでもどって、そこを説明でき
  んなら、小説ってよまなくてもいいよね。
  だって必要ないもの。でも僕には必要なんだ。それがわからんからな。でも、例えば好み
  って過去に遡ってある程度のとこから語り始めていけば、自ずとわかると思うんだよね。
  例えばだな、目の前に好きな人がいる、ってのと、目の前に好きになった人がいるの違い
  ってやつかね?
 十三分後。以降二分後、三分後と続く。その説明を試みていますが、これは説明できるものではないと思います。つぶやきの中でも書きましたが、それを説明できたら、その説明できたものは論理で、破壊できうるということになってしまいます。それはおかしい。破壊できる現実なんてのはないのでないでしょうか?
 いや破壊できるよね。それを目標にしてもいいわけだ。で、あらたな物語の枠というものを創出したりもありだし、物語っていう枠でなくてもいい。断片でもよい。でもそれって小説じゃないしなぁ。今僕は世界という枠の中の物語枠を考察しているだけだっていうことの再確認でしかないな、こりゃ。ただフィクションの持っている整合性的なものを破壊するのではなく、超越するのですね、断片は。
 んで、ここで僕はその物語の力ってものを夜三時の妙なテンションで書き始めます。結論がこれまた「例えばだな、目の前に好きな人がいる、ってのと、目の前に好きになった人がいるの違いってやつかね?」ときている。ほんとさいこーだね。

 結局僕は何を言いたいのか。
 物語の力なんてそんなものはどうでもいいんです。それは縛られようと縛られまいと、いつだってそこにあるんで、ほぼ無意味無定義語であるのだからです。世界然り、人生然り。
 心境を書くにあたる上での態度、もしくは伝えたいことを書く上での態度、というものです。それは宝石みたいな言葉では伝わらないんで、物語という行為として見せなければいけないっていう当たり前のことです。
 伝えたいことを言葉で伝えるのは論理。物語で伝えるのが小説、っていう大枠があって、しかし物語ってのは、その範囲が広すぎる。作者の想像より上のものを生み出してしまう。それを受け入れようと、受け入れまいとにかかわらず。自然を征服しようって言うのが心境小説なら僕はいらない。んで『舞踏会』に話を戻すと、前半部分はその世界そのものを書こうとやっきになっている。で、物語が破れて、断片化していると言いたいのです。断片と断片をつなげるのが物語ならそれでいいですが、僕はその側には立っていません。伏線にするために物語から浮きあがるものってのが、僕は嫌いなんですね。でもこの立場は小説を書くという行為に当たる場合の僕でしかありません。
 メタテクスト、というより批評や論評は、物語というものの力を借りながらも、それを従えて、解析して、ぶっ壊して、また構築して、また誰かが変なとこぶっ壊して、っていう論理の積み重ねでしょう? そういうのに関しては、ぜんぜんいい。むしろそうでなければならない。
 前半物語の導入部が、そういう説明になってしまっている。もっと書いてくれていいし、もしくはもっと削ってくれていい。まぁ不条理とかそういうのに慣れたからそういえるのかもしれんがね。でも、愛はなんたるものかとか語られちゃたまったもんじゃないよね? そういうのはぜんぜんないんだな。こういうところにひかれるとか、そんなのはちょっとはあるけどさ、そこんところはとってもいい。後半部分は素晴らしいよ。というか、よみゃよむほど、伏線が回収されていくよ。でも僕を呪っている本は、そんなものインチキだっていうんだよ。んで、僕は崖へ飛び込みたいのに、つかまっちまうわけだ。/(^o^)\ナンテコッタイ

 と、まあ、こんなところかな?
 最終的に言いたいことは、物語をもっと信用してあげようってな話さ。飽き飽きするね。少なくとも僕はそう思うよ。