壁―成体としての「ぼく」―安部公房『壁-S・カルマ氏の犯罪』

「犯罪」とはストーリーの中では、「ぼく」がスペインの荒野を写した写真を吸収してしまったことをさす。しかし名前を盗まれ「ぼく」または「彼」と語られているであろう「S・カルマ氏の犯罪」はすべての犯罪をさす。カルマとは語られている通り、サンスクリット語で罪業という意味だ。Sをどのように解釈するかは語られていないが、サンスクリットの頭文字はSである。そのために付加されたようにもうつる。根拠はない。これは本題ではない。ここで主張しておきたいのは、カルマを罪業というサンスクリット語の意でとらえる場合に起こる、因果の逆転である。これは『壁―S・カルマ氏の犯罪』において、幾度となくなく現れ、そのリズムを作るもののように思われる。つまりそれは、S・カルマ氏=罪業がなしたことが犯罪である、という一般の意味では物語をとらえられず、犯罪とはS・カルマ氏のなしたことである、という倒立のことだ。
 そのために罪業は名を失う必然性が生じた。むしろこの物語にあわせるならば、名をなくしたものが、S・カルマなのだ。「ぼく」が「中学生のころ空想の中でライバルに仕立上げたあの男の人形」との対話において、「他人をあなたから区別することはほとんど不可能」と語られる場面において顕著になる。
 ここで一言を付しておきたいのだが、この「空想」という言葉も短編においてよく繰り返されるものであるように思う。フィクション、現実ではない、という類義的な意味にとると(作品そのものがフィクションであることはおいといてください)、この短編の「空想」は即ち現実と捉えられる傾向が強い。空想を仮定と捉え直すと、それはすべて現実であるようにとれる。この強調に作者の意を汲み取ることも可能ではなかろうか。語り手は名刺にこう語らせている。「願望を現実にして奴等にたたき返し、うんと言わせてやるのがおれたちの復讐なんだ」
 フィクションの中では、空想が現実である。物語において、現実は空想である。このようなカルマ―犯罪の関係と類似したものを散逸させることで、では読み手の世界は? と再考させることも、作者の目的ではなかろうか。この物語において、空想は真に空想的である。黒いドクトルに言わせれば非科学的である。ほぼ唯一といっていい科学的な世界は、転倒の起きていないものは、荒野の風景のみだ。そこに荒野というものの強調をみる(いっさいの説明なく、荒野はこの物語において絶対的だ)とともに、現実に支えられているフィクションではなく、フィクションに支えられている現実を導き出すのは不可能でないように思われる。名前を失わない世界、生きている無機物のない世界、壁になれない世界。フィクションが完全に否定されるところに現実がある。フィクションを肯定しきれない現実がある。それが現実の確実性を高めるのだろう。だが同時に空想を許さない現実とは、存在しにくいことをも示唆する。現実はフィクションに支えられいる。この構造がこの短編を支えている。この短編がこの構造を支えている、とこの物語にあわせていってしまえば、それは言い過ぎとなるだろう。一切のフィクションは、とでも言うべきだろうか。
 だが現実をそのままに描き出すフィクションもある。それは語り手の主観に擁護されている現実の欠片である。風景を切り取る写真と同様の構造を、ノンフィクションと呼ばれているものは有している。またストーリーとプロットがことに写実的であるフィクションものもまた存在している。実際のありそう、といわれるフィクションもこれに当たるだろう。だが、ありそうでない、というのが大抵のフィクションであり、あまりにも実験的過ぎると読者の共感を得られない。(そういうものは存在するが、やがて消えていくだろう。それは人の個性のもっとも深く他に理解されない部分で、その人の個性を知りたいという理由で残されない限りは、その人の消滅とともに消えていくのが道理だ。そしてまた新しい実験が積み重ねられ、その共通項があらたな物語を、もしくは組み合わせを、産んでいく。またこのカッコ内は所見である。)読書行為には作者→読者への接近があり、その逆もある。その双方向によって小説は支えられている。自分のためだけにかかれた小説も、書き手の自分、読み手の自分の関係性において成り立つ。
 これらは切り取るという、主体の美意識によって選別されているもので、彼ら(語り手もしくは読み手)が伝えたいものを切り取っているものであり、一つの概念を先においた転倒によって支えられいる現象である。その意味において右記の主張に被さるが、一般的な捉え方の上では、純化されたもの、意図的なもの、恣意的なものである。風景を枠の中へ入れる行為は、その風景を異化する。特殊なものと思わせる。しかし枠をとりはらえば、それは当然のものでもある。(どちらが優れているか、それは主観による。)枠にはめる、選ぶ、という行為は、このように現実から現実を切り離す、フィクショナルな所作の一様式にすぎないことを、了解してもらいたい。現実はこのようなフィクションに支えられているのだ、と。
 現実とフィクションのこの関係を了承してもらえた上で、カルマ―犯罪へ目を戻してもらい、そこに一つの説得力というものを垣間見してもらえたら、幸いである。
 だがこれだけでは、A→B、B→Aという二元論に終始してしまう。このような壁を作ってしまう。これはライバルのマネキンから受け取ったカード、<旅への誘い>の裏が<死んだ有機物から生きた無機物へ>というものへの考察を産むだろう。裏返す、つまり別の(あるいは逆の)見方をするということだろう。この表裏に関係がないとするのは、あまりにも乱暴であると考える。世界の果への旅、というものが壁という生きた無機物になる、ということなのだろう。では、こうなると「ぼく」もしくは「彼」は、死んだ有機物ということになる、のだろうか。死んだ有機物というものを殊更厭世的に解釈すれば、それもつかめるかもしれない。胸の空虚感だ。目を覚ます、ということはそれに気づくという意味ではないだろうか。名前をなくす前の「ぼく」が本当にS・カルマ氏であるとはいいきれないことは右記で説明した通りだ。カルマ―犯罪関係が、現実―フィクションの構造と同様に保障され、その倒立が確約された世界での物語ならば、カルマ氏とはいわゆる固有名ではない。名をなくし、犯罪を全て背負うものたちの総称であるのだ。名前をなくす、という装置は、物語を進行させる役割を担っているが、それがクリティカルなものであるならば「死んだ有機物」に繋がらない。死んだ有機物とは一つではなく、全体を指しているからだ。それは生きた無機物が一つではない、ということからもわかるだろう。また名前のない誰かとは、基本的に、具体化されない個という意味で、すべての人間をさすものだ、と考えられる。よって、そもそも有機物は死に、「目 を覚ましました」つまりそれに気づいた、「ぼく/彼」が偶然名を失っていた、と取れないか? 昨今言われるように、偶然とは必然だ(これをすべて肯定する気はない)。また、物語においてはそもそも偶然性を語ることは愚にも等しい。そこには必然がある。
『赤い繭』においてそれが補足されているように感じる。こちらの主人公は目を覚ますことはないが、絶望している。「誰のものでもないものが一つぐらいあってもいい」とは、『赤い繭』語り手の言葉だ。繭になることと壁になることは、同じ現象のようにみえる。しかしこの二者には決定的な違いがある。荒野だ。後者も荒野やそれに類するものを吸い取る権利はある、しかしそれをしないのは、物語が違うから、語り手の意図が異なるからである。この主人公を前者の物語に組み込むことはしない。が、関係性はある。
 名をなくす必然性がどこにあるのか。死んだ有機物は空虚感をもともと備えている。名をなくさずとも、荒野は手に入ったのだ。そもそも、S・カルマ氏には名前なんてなかった、とするのがこれの論調である。
 それを説明するために、消極的に『赤い繭』を引用しようと、僕はするのだ。つまりこれは『赤い繭』ではない、『壁―S・カルマ氏の犯罪』である、と。『壁―S・カルマ氏の犯罪』の初出は昭和二十六年「近代文学」二月号である。『赤い繭』は昭和二十五年「人間」十二月号だ。僕は『赤い繭』で得たものを安部公房が『壁―S・カルマ氏の犯罪』へ昇華したものと空想する。事実かどうかは確認が取れていないので明言はできない。ただ二者の間には、消えない関係性があるように感ずる。『壁―S・カルマ氏の犯罪』が『赤い繭』でないことを問題化しようと思うのだ。これはいささか乱暴かもしれない。
『赤い繭』では「おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではない」と切り捨てられるが、それは繭になった男の場合の話である。壁ではない。繭と壁の差は、荒野と名前への執着の差でもある。繭はすべてを投げ捨てた男の「世界の果」だと思われる。だが、荒野を有し名前を失った男は、壁になる。ここで繭と壁の性質の差を考えてみよう。
 繭は糸の塊で、自分というものが解体されていく様のように思える。だが内部は空洞だ。また繭とは幼虫が成虫になる、そのような時に生じるものだ。変身の象徴だろう。しかし、この赤い繭は内部が空洞なのだ。付け足しておくと、赤はおそらく血潮からの連想であると思う。繭の中が空であるのは、胸の空虚感のことだろう。つまり、その繭から生まれたものが、壁ではないだろうか、と僕は思うのだ。つまり、誰でもいいもの=幼虫が死に、赤い繭=「ぼく/彼」、生きた無機物=壁=成虫になる、という構造だ。壁はまた成長までもする。名刺などといったものが生を受けた理由もここから判明する。あれはまた同時に「ぼく/彼」から分離した、主人公の性質であり、その変身である。そして純粋な「ぼく/彼」だけが残った。そして純粋であるが故に、作者安部公房がもっとも惹かれた荒野、砂漠というものを、与えられたのだろう。問題となってくるのは、こうなるとY子とあのライバルのマネキンであるが、後者は主人公の理想の分身であるライバル、Y子は主人公のアニマであり、そのマネキンはアニマという主人公の分身であるから生を受けたのだろう。
 こうなると父性の象徴であるパパをユルバン教授という社会的権威とともに失い、美的センスである画家、正を背負った少女、負を背負った浮浪児、二人の法学者、二人の哲学者、(二というのは二元論的なものであろう)数学者=論理(論理を先に失っていたが故に3+5=?となるわけだ)黒いドクトル科学への崇拝などなどを失っていくわけだ。これは、人間の持つ多義性を失っていく物語であり、つまりはその確認でもある。こうして、主人公は自分の分身をすべて失い、純粋なものになった。壁である。成長し続ける壁だ。(AとBの関係の二元論を基本的な構造として持ちながらも、そこにさまざまな雑多を持つ人を、そのすべてを失っていくことで表現し、そして純粋な存在へと昇華/堕落していくさまを描き出している。ぼくはそのように感じた。その上で、ユーモアの構造をも安部公房は残している。そちらを主題にしてもいいほどである。失えるという論理構造というものは、かようも惰弱であり、倒立もするとアイロニカルに表現しきっている。批判の目を当てるならば、当然実験的に過ぎるということではなかろうか。カフカ同様にかような個性を残されると、後人は孤独を紛らわすと共に、すべきことをも忘れてしまう。また、この物語には、厳密な意味での他者がいないように思える。彼の分身で構築されている。その意味で、圧倒的な他者は、自分である壁だけである。)