想像力の暴力的なまでの力

 文治の文章を受けて、まず一つ謝らなければならないことがあります。
 現代のもの、と僕は書きましたが、この「もの」という単語は、前文の「文学」を受けたものであります。訂正するならば、
「文学的な再発見、または現代の文学を残していける力」
 と、なるでしょう。また古典に関して幾らか言葉を並べましたが、古典もまた、現代に存在している限り、現代文学の一部であると考えるべきではないでしょうか。再発見を強調した理由もここにあります。むしろ、古典という呼び名に対する反発とでも言うべきでしょうか。教養をつける、という謳い文句で、古典の解説本、安易な漫画化に対する反発であるのかもしれません。もちろん、漫画を否定するわけではありません。おそらくぼく自身の、物語というものへのいっち番最初の接近は、『ドラえもん』であることは否定できない事実です。『鉄人兵団』は幾度も見ました。また、そういう意味では『ウルトラマン』も字への接近という点では最初のものでしょう。僕は親に言わせると、ウルトラマンのお陰で、平仮名より片仮名のほうを早く覚えたそうです。
 このように見ていくと、たしかになぜ文学でなければならないのか、という反発も当然のことのように感じます。しかし、僕は映像を否定するわけではありませんが、文学の持つ想像力への働きかけほど、僕自身を刺激するものはないと思っています。以前、条には話したと思いますが、ライトノベルを僕が受け入れきれない理由もそこにあります。登場人物のビジュアルを文章でなく、画像で出すというのは、ノベルである必要性をまったく感じないからです。想像力の限界を、小説の方で定めてしまっては、自ら首を絞めているようなものではないでしょうか。その点、小説を基にした映像、というものは評価します。彼らは映像の力を、僕が考える文章の力と、同じように受け止めているはずです。しかし、ライトノベル、しかも絵ではなく文章を書くほうには、その意識が薄いと思われます。絵のほうは小説の解釈、として捉えることができますが、その解釈をイコール原作とするようなとられ方を容認する態度を残すことは、自殺行為のように見えます。
 そこに、商業主義との迎合を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし恐らく、そのようなものは現在でしか問題にならないものではないかと思います。全くとはいえませんが、文学というものへの僕が求める力とは、交わるかどうかの確信がもてません。
 売れる売れない、というのは、作家ではなく編集の責でもあると思われます。作家は書きたい物を書き、編集の側がそれをマーケティングに基づいて選ぶ。こう書いたほうがいい、という指摘は的を射ることがあるでしょうが、こう書かなければならない、というような指摘は、個人の理想であり、文学の理想ではない。文学が、学問ならば、書かれたものを書かれたものとして捉えることが肝要ではないでしょうか。もちろん、売れるように努力することは、良い小説を書こうとすることに矛盾しません。むしろ売れるようなものを書こうとしてかけるならば、これほど作家が増えるはずもありません。
 ここで商業主義へ批判的な態度を取る方は、学問的もしくは文学的価値と、商業上での価値は違う、と仰られるでしょう。しかし商業、マーケティング、むしろ経済と呼び習わした方でいいでしょうか、それらは立派な学問でもあります。マーケティングには心理学的なものも多分に含まれております。そして分節化した学問も、もとを辿れば、商業ならば商業で、政治ならば政治で、化学ならば化学で、一種の『理想』、少なくとも前へ進もうという、同じ目標を掲げている同士であることを忘れてはいけません。大衆文学、エンターテインメントなどのなにがいけないでしょうか。ただ僕が言いたいのは、小説の挿絵がもたらす、想像力への介入がいけない、といっているのであって、ライトノベルを拒否する考えを持ちません。それに、想像力が未成熟であったころに読んだ、絵本には当然絵があります。絵と文章を繋げる、というのは想像力を鍛える初歩の初歩でしょう。そこから、絵を見て文章を想像する、文章を見て絵を想像する、その力を身につけていくのです。そして、絵にならぬものを絵に、文章にならぬものを文章に、そうしていく力が生まれるのでしょう。
 このように書くと、過分に理想主義者のように響くかもしれませんが、否定しません。
 また、文治がいう現代を表すのに、文学である必要があるのか、という問いにも、上記した文章がその説明にもなると思います。まず現代に生きる人が、古代を描いてもそれは現代のものでもある、ということを忘れてはならないと思いますが、それはまた別の問題でしょう。文学で現代を表そうという試みは、作家が多様にいるように、現代を表す術が一人ひとり違い、また想像力の発達とその使用法がそれぞれ違う、ということが前提としてあるではないかと思います。その上、他の法学や政治、経済などと照らしながら、僕の中で文学に軍配が上がった、という点に触れることも必要でしょう。今までの生き方から、文学を選ばざるを得ない。もしくは、これまでの行動の結果が、これであった、とするべきではないでしょうか。そもそも文学も学問が先にあったわけではない。文学とはを論じるよりは、だれそれの行動の結果が文学である、という態度で望むべきだと思います。文学とは、を先にやると、やはり自分の理想への適合不適合に陥るでしょう。それは、自分の理想へかける一種の博打です。もちろん、小説化とか作家としては、それでいい。全然いい。しかし、大学で文学を学ぶ上では、その態度をカッコに括る必要は、かならずあると思います。
 最後に快楽についての言及についてですが、それを一人ひとり違うのだから、というこれまでの論旨で片付けるわけにも行かないでしょう。この問題は、それを前提として考えていると捉えるべきです。その偏りや傾向を捉えるのが心理学であるならば、文学としては偏りと傾向を容認し、理解しようという努力が必要であると考えます。条の文章は恐らくその傾向を示す文章であって、それを文治のように原則を示せとするのは、辛く当たりすぎではないでしょうか。舞城の価値観から来ていることに触れながらも、内実を示せと言い放つのは、少々辛らつのような気がします。
 文学の固有性を問題にするならば、想像力の行使の仕方というものは、一つの議題足りえると思います。想像することでしか置き換えのきかない、想像上のものでありながらも、実存しているものはあると思います。例えば人格とか個性とか? 文学というものは、もちろん空間への想像、描写への意識の投げかけ、陶酔や快楽、というものが基礎でしょう。
 もちろん、紙的なものとインク的なものを忘れてはならないでしょうが、そこらへんはちょっと分野違いでしょうから、なんともいえません。しかし重大な問題でもあると理解しています。
 ここで問題なのは、想像力という言葉の持つ、無限にも近い汎用性です。想像なくして、人間の生活が行えますか? 明日を想像できず、昨日を想像できず、「ことば」という文字から意味を抽出できない。想像力は、基礎の基礎過ぎるのです。それを理解するには、体系だって説明するには、僕の力は足りないでしょう。
 ただ、文学は想像させることによって、力を得ます。文学によって想像されたものと、実際に映像化できるものとの差異が、文学にいわゆる撤退戦を強いない理由ではあるかと思います。
 だって、評論とかなら、この場面はこうだってメタテクストで語れるけど、それを小説でふつーにやって、人生とは〜なんたらっていったら、いや評論読めってなるでしょう。そうやって趣旨語れるんなら、いいじゃん、そのことばだけで。それに説得力を持たせたいんなら、フィクションじゃなくてノンフィクション使えよ。フィクションのほうが強調しやすいってんなら、それこそ評論ですよ? すみません。
 想像上のもので、想像以外で語れないものをやるのが小説だと思います。その語りつくせないものを、語ろうとするのが文学でしょう。僕は今のところそう考えています。
 あと、普遍的な固有性について触れていましたが普遍ということばは理想であって、想像のものだと解釈しています。想像はしかし普遍的でしょうか?

文治、触れられない言葉の手触り http://d.hatena.ne.jp/society777/20091225