先日のTwitterでのまとめ『ライ麦畑でつかまえて』に呪われた男編

 先日寝る前になにかつぶやこうと思ったのがことの始まりだ。なぜつぶやこうと思ったのか、それは友人が雑誌を作るとのことで幾分活動的になっていたことに主な原因があるともう。その日は僕もこのはてダを立ち上げ、twitterのフォローしている人をkugaに増やしてもらった。より活動的になりながらも、書きかけの小説を上げるなんてことはできないんで、つぶやいとくか、と思い立ったわけだ。ちょうど先日某氏に『ドルジェル伯の舞踏会』(以下『舞踏会』とする)の前半つまんねぇ、ということをほざきながらも、後半面白いんじゃね?これはなんとかフォローしなければ、と思い、書き始めたわけだ。

2009-12-09 02:28:32 一度目のつぶやき
  『ドルジェル伯の舞踏会』を半分ほど読んで『肉体の悪魔』のが面白いなって思う。何故
  だか考える。『舞姫』『ライ麦畑でつかまえて』との関連で後者を好いているのかも。前
  者は導入に手間取っているように見える。どこまでも書くことに戸惑っているように思う。
  他と連関しない部分があるように感じる。
 僕自身、このつぶやきが以後五十分続くものだとは思ってもいなかった。続いてしまったのは、前述したように反転するクリティークのせいである。文治のせいである。責任転嫁はよくない。しかし文治は俺の嫁ではないので気にしない。奴のせいである。
 このつぶやきの主旨はむしろ『肉体の悪魔』への賛美となっている。相対的に『舞踏会』の前半部をこきおろすことが目的だろう。簡単にいってしまえば、書き足りないのではないか、ということだ。同時に『悪霊』なんか読んでいるから、よっぽど、そんなちんけなことを考え付いたのだろう。最後のつぶやきでも反省している。今だってしている。

2009-12-09 02:34:59 二度目
  後半視点が定まりはじめると読みやすいと感じるようになった。これは僕の読み方がいけ
  ないのだと思い始めた。小説をどのように読むか。それは、もちろん書いたりする時、そ
  して批評なんかやる時も重要だろうね。どのように読むかということは、そのまま誰が読
  むか、主観の問題に繋がる。百人百様。
 十二分後、である。ちなみにうちの旧式自作パソコンだと「あ」と打つのに一秒かかる。変換にも一秒かかる。だから、テキストエディタに書いたものをコピペするという方式をとっている。だいたい、170字程度になり、つぶやけないという悲劇がおこり、最後の三十字程度を次に回す方式をとる。今回それが顕著だったがゆえに、こんなことになった。/(^o^)\ナンテコッタイ
 これは主に弁明である。そしてなぜ前半部分が嫌いだったのかを考え始める。つぶやき自体は自明でとりとめて本旨と関連しない。

2009-12-09 02:42:42 三度目
  僕は感情移入するタイプだと思う。俯瞰ができない。『デヴィット・コパーフィールド』
  式のくだんないことが嫌いなんだろう。それが一つの物語だったりなんだりしてくれれば、
  僕はそれを受け取れるだろうけど。んで、飛躍しちまうと、心の動きを丹念に書くことは
  そのくだんないことの様に思えるんだ。
 八分後。呪いが姿を現す。去年あたりから切実になってきた。『ライ麦』への愛が、愛を超えて憎しみになり、そして宿命になった感じである。ここでは言いたいことを次に回している。

2009-12-09 02:48:05 四度目
  物語っていうよりもっとずっと無機質なものに見えてくる。宝石みたいな。そういうのが
  いいのはわかるけど。語り手が全能みたいに見えて僕は怖い。誰かがその時思ったことが
  行動に移っていく、っていう将棋みたいなのはわかるけど、僕は同時に、その人は絶対に
  それ以外のことも考えていると思うんだよ。
 六分後。これは主に自分が全能になれないことの僻みだ。怖いなどと書いているがね。自分で書いた物語でさえも、自分の想像以上の効果(以上と書いたが、それはすべてプラスの意味を帯びるものではない。前書いた『雲と蝿』はまだ理解されていない。)を持つという話である。その力にかけようというのが僕のスタンスならば、行動へ移る精神のゆらぎを書こうとする彼とは対立せざるを得ないだろう。いけないことではない、とも思っている。だから宝石と書いた。結晶でもいい。でも精神というものは確定されていない。科学技術の発達を望む。しかしそんな世界は住みにくいだろうね。でも今の世界だって昔比べればある面では十分住みにくいし、ある面では十分住みやすいんだよ。中学のころは好きなことを好きなようにしていればよかったけど、好きになれることが少なかった。今じゃ、好きになれることがたくさんあるのに、好きなことなんてほとんどできないし、そうして僕を縛っているのは僕自身という始末だ。しかし愚痴でしかなく本題からそれるので、この程度でやめにする。精神は確定されていないという話だったね。

2009-12-09 02:54:55 五度目
  でもそれは説明できないし、語り手が触れてもいけないことだと思う。そういうのを目指
  すのもまたいいけどさ、分析みたいに。でも僕は物語側に立つ人間なんだよね、きっと。
  感情ってのは説明できない。決め付けは良くない。でもAがBしたのはCだからっていう
  のは、物語の力を無視していると思う。
 六分後。でも確定されて「いない」では証明でもなんでもないんだよ。そのことを昨日の僕はわかっていないし、今の僕だって実践できていない。ここらで完全に本筋からずれている。いわゆる心境小説というものの良い部分を書こうというたくらみを完璧に失念している。宝石の輝きを無視して、そんなインチキでくだんないものをぶっ壊してやろうと思っている。呪いです。ちなみにさっきの愛憎しみ宿命はMr,Bushidoです、ガンダム00です。最近見たのです。デス、デス。
 ここで僕は、物語を絶対化して、その原因理由が語られなくとも、現実世界のように物語は進行するし、現実は語られるということを言おうとしています。次がその試み。この時点で、世界というものに含まれているテクストという問題を失念しています。小説が、自然の力に勝っているかの如くですね。ひどいですね。フィクションという現実とか世界っていうものの中の一つのくくりでしかない、ということを忘れています。でも僕が言いたかったのは、そうやって現実とか世界の中にある限り、外れることのない、法則というか物語というか、そういう力を主張したかったわけです。
 

2009-12-09 03:07:43〜2009-12-09 03:12:16 六〜八度目
  目の前に完全完璧好みにぴったりの人間が現れた。何故そういうのが好みかというと、っ
  てのを全部説明できますか? できるなら、それは感情じゃなくて論理に根ざしているも
  ので、急所を突かれたら崩壊しちゃうでしょ?
  いかにしてその好みが形成されたのか、を過去に立ち返って説明するんでもいいよ。でも
  絶対に説明できない点が出てくると思うんだ。それが研究対象ってのも面白いけどね。僕
  は何故鏡に映った自分を他人と思わないのか。そんぐらいまでもどって、そこを説明でき
  んなら、小説ってよまなくてもいいよね。
  だって必要ないもの。でも僕には必要なんだ。それがわからんからな。でも、例えば好み
  って過去に遡ってある程度のとこから語り始めていけば、自ずとわかると思うんだよね。
  例えばだな、目の前に好きな人がいる、ってのと、目の前に好きになった人がいるの違い
  ってやつかね?
 十三分後。以降二分後、三分後と続く。その説明を試みていますが、これは説明できるものではないと思います。つぶやきの中でも書きましたが、それを説明できたら、その説明できたものは論理で、破壊できうるということになってしまいます。それはおかしい。破壊できる現実なんてのはないのでないでしょうか?
 いや破壊できるよね。それを目標にしてもいいわけだ。で、あらたな物語の枠というものを創出したりもありだし、物語っていう枠でなくてもいい。断片でもよい。でもそれって小説じゃないしなぁ。今僕は世界という枠の中の物語枠を考察しているだけだっていうことの再確認でしかないな、こりゃ。ただフィクションの持っている整合性的なものを破壊するのではなく、超越するのですね、断片は。
 んで、ここで僕はその物語の力ってものを夜三時の妙なテンションで書き始めます。結論がこれまた「例えばだな、目の前に好きな人がいる、ってのと、目の前に好きになった人がいるの違いってやつかね?」ときている。ほんとさいこーだね。

 結局僕は何を言いたいのか。
 物語の力なんてそんなものはどうでもいいんです。それは縛られようと縛られまいと、いつだってそこにあるんで、ほぼ無意味無定義語であるのだからです。世界然り、人生然り。
 心境を書くにあたる上での態度、もしくは伝えたいことを書く上での態度、というものです。それは宝石みたいな言葉では伝わらないんで、物語という行為として見せなければいけないっていう当たり前のことです。
 伝えたいことを言葉で伝えるのは論理。物語で伝えるのが小説、っていう大枠があって、しかし物語ってのは、その範囲が広すぎる。作者の想像より上のものを生み出してしまう。それを受け入れようと、受け入れまいとにかかわらず。自然を征服しようって言うのが心境小説なら僕はいらない。んで『舞踏会』に話を戻すと、前半部分はその世界そのものを書こうとやっきになっている。で、物語が破れて、断片化していると言いたいのです。断片と断片をつなげるのが物語ならそれでいいですが、僕はその側には立っていません。伏線にするために物語から浮きあがるものってのが、僕は嫌いなんですね。でもこの立場は小説を書くという行為に当たる場合の僕でしかありません。
 メタテクスト、というより批評や論評は、物語というものの力を借りながらも、それを従えて、解析して、ぶっ壊して、また構築して、また誰かが変なとこぶっ壊して、っていう論理の積み重ねでしょう? そういうのに関しては、ぜんぜんいい。むしろそうでなければならない。
 前半物語の導入部が、そういう説明になってしまっている。もっと書いてくれていいし、もしくはもっと削ってくれていい。まぁ不条理とかそういうのに慣れたからそういえるのかもしれんがね。でも、愛はなんたるものかとか語られちゃたまったもんじゃないよね? そういうのはぜんぜんないんだな。こういうところにひかれるとか、そんなのはちょっとはあるけどさ、そこんところはとってもいい。後半部分は素晴らしいよ。というか、よみゃよむほど、伏線が回収されていくよ。でも僕を呪っている本は、そんなものインチキだっていうんだよ。んで、僕は崖へ飛び込みたいのに、つかまっちまうわけだ。/(^o^)\ナンテコッタイ

 と、まあ、こんなところかな?
 最終的に言いたいことは、物語をもっと信用してあげようってな話さ。飽き飽きするね。少なくとも僕はそう思うよ。