整理整頓

 陸条(http://d.hatena.ne.jp/joe_kuga/20091216)文治(http://d.hatena.ne.jp/society777/20091218)と来て僕の番である。詳細は彼らの書いた同タイトルの文章を参照されたい。「なぜ文学を選んだのか?」裏を話すと、この問いにしようとしたのは僕だ。まずこのことを謝罪しておこう。文学とはなにか、という問題自体が条が書いたように「抽象的で厄介な問題」である。でなきゃ困る人がたくさんいるのである。逆に解釈に困らないものを文学と呼んでいいのか、とも思うところであるが脱線しているので止めておく。
 とにかく、文学とはなにかとか、解釈がどうとか、どんな作家が素晴らしいとか、なぜ読むか、なぜ書くか、などを生きていく上で考える機会が多いから、文学を選んだ、などといえるのではなかろうか。文学という学問が先にあって、文学テクストが生まれたわけではないのだから、自分の行動に一番近いものを探してみたら、「文学」だった。それだけのことだろう。まとまってしまった。としたら、論点のすり替えに二人が激怒することだろうから、やめておこう。
 好きなものが文学だった、ということは問題にされていない。なぜ好きになったかが問題なのだ。「好き」を「興味がある」とかそんな類義語に置き換えてもいい。好き、といったときに起こる好悪の判断(好きな文学を言葉にした時、その言葉になされなかった部分は嫌いなのか? そんな文学観は偏狭に過ぎないか?)やらなんやらまで触れるのもまた、脱線だろうからやめておく。
 ならば、どのようなものが好きか、ではなく、好きなものはなにか、という点から類推してもらった方が答えに近いものが生まれるだろう。好きとか、そういう感情は言葉では説明できないなにかで、物語や情景の組み合わせ、音楽とかそういったもので表現ができるものだと願うからだ。他の言葉では説明しつくせないものが感情というものだろう。感情を表現できる術、いや言説化しにくいものを表現できる術の方が近いだろう、そういう意味で本などといったものが好きだ。でもこれは文学だけではない。ほぼ全ての表現を含む。感情を説明しようという努力もまた表現である、と思う。ならばそのたくさんある表現の中で、なぜテクストを選んだかは少なくともいっておかねばならぬだろう。別にテクストだけを楽しみ、それ以外を排除しているわけではない。絵画も見るし、音楽も聴くし、映画も見る、文章のみを選んだわけではない。ただ紙とインクだけ。絵のように一枚にまとめる必要もないし、音楽のように消えない(それが良いという点も認める)、映画のようにカメラも必要ない。それがとても好きなのだ。もっとも自由なもののようにうつる、というのがその説明に一番近いだろうか。さてここらで、なぜ文学を選んだかが、僕の好きなものの説明になっている、という反論が聞こえてきそうなので、やめておこう。
 文学と呼ばれても不思議と思われないものを読み始めたのはいつだろうか。読書記録をとるようになったのは高校からだ。本にメモを書き込むようになったのは浪人中。しかし、一番最初は幼稚園の絵本だったろう。児童文学というものだ。だが今となっては、あれらのものは難しすぎる。そもそも「悪」というものをどう表現するのか、いや、幼児に見せてはいけないものはわかるが、それらを悪と断じてもいいのか、などといった懸念が先にたつ。難しすぎる。次が国語の教科書、図書館の児童書(小学生の頃は『ひとりぼっちのロビンフット』だったかをよく読んでいた。僕は好きな本は繰り返し読むタイプなので、たくさん忘れてしまった本はあるが、これは覚えている。僕は粘着質なのだ。好きなゲームは大抵何周もする)青い鳥文庫(パスワードシリーズ、といえばわかる人も多いだろう)、そこからミステリ(森博嗣かなぁ)という感じだ。エンタメ傾向の本も随分読んだが、文学、純文学も十分エンターテインメントであろう。分ける必要性はそれほどないと思う。
 以上が概略だが、この中から純文学と呼ばれるものは抜いた。文学史というものに名が載るという意味での純文学だが、それらを文学として意識して読み始めた、評論というメタ化を想定し始めたのは、つまり「文学を選んだ」のはやはり前の二人と同じように高校に入った辺りからだ。陸条は「個人史的なことをここに叙していっても仕方ない」といっていたが、文学とは殊に個人的なことであって、それが人々へ伝えられ拡散していくという側面を無視してはならない、と思っているが故に叙したわけだ。ただ僕の人生において読書がなくなる(「人生とは」もまた説明しずらいものだろう。また、読書が消えるなど、本というものがなくなったりはするかもしれないが、SFでもない限り不可能だろうが)、ということがないという例を示したかった。また「書くこと」も書いていない。パソコンを手に入れる以前のものは、もう持っていないし、しっかりと思い出せないからだ。それらはすでに思い出になっている。
 メタ化への、消費者としての僕からの脱却への、最初の契機はカフカの『変身』である。これが本題なのだろうけど、文学を選んだ理由足りえない。評論や文学部へ進もうかと思い始めたのは、これだろうが。実際、文治のように現役のころは法学か文学かで迷っていた。生活できるか、というのがあったからだ。それが消えたのは、浪人してからだ。説明は不要に思われるので書かない。
 ただ、この世界で生きていくならば、文学とはなにか、を知る必要があった。僕はこれが文学である、といえるものをしらない。だが世界には「文学」があった。文学と呼ばれているものがあった。そういうコンテクストがあるのだ。それが絶対的に正しいわけではもちろんない。だがそれらを無視していい理由にはならない。それらを下敷きにして今の「文学」が存在するならば、それら古典というものに対する自分の立場も持っていなければならないだろう。その上、価値判断というものも、人生とか意味とか、そういうもの同様で、自分で創り上げなければならないもののだ。各人に元から備わっているとするのはあまりにも乱暴だろう。だが文学を選ぶというのは、価値を説明可能にしようという努力ではないかと僕は思う。時の試練に打ち勝ってきたというものも良く聞くが、それは現代においてのみであって、後代に再発見されるだろうものを想定していない。これから消えてしまうだろうものもだ。これまでの「文学」によって消えなかった、という点で古典を評価されているとすれば、それは間違いであろう。今まではそうだ、これからは違うかもしれない。しかしそのような判断を僕はとれない。それでは駄目なのだ。
 極言、一人の好悪は問題にはならない。文学を好きである、それは結構。望ましいことだ。嫌いな文学を選ぶような人間はいないだろう。しかしそれは一つのきっかけではある。その点は認める。しかし、それが文学的に見て正しいか否か、そしてその文学的な立場が論理的に間違っていないかが、それが問題なのだ。
 再発見、もしくは現代のものを残していける力をつけ、それを実行する。文学を選ぶ、文学をやる、ということを僕はそのように解釈している。
 そのためにはこれまで文学と呼ばれてきたものを、こういう理由で文学であると説明できなければならないし、その逆もできなければならない。価値観の構築とその修練、それに最適なのは古典だろう。現代の小説をそのようにする力を、僕は持っていない。もてるといいな、と思っている。
 さて、最後に「書くこと」についてだが、僕は別に書くことを選んでいない。本当なんだ。ただ、書くことをやめたら、死ぬんじゃないかって思うぐらいだ。たぶん死なないだろう、でも生きていけないだろうと思う。